『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展』と『知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展』  2008.5.3

雨の降るGW、中学生の次男を連れて2つの展覧会に行ってきました。
まずは森美術館で開催されている『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展』

日本初上陸のデミアン・ハースト 《母と子、分断されて》が目当て。
といってもデミアン・ハースト好きというわけでもなく、来るのだったら見とこかな的な感じでして。
要するに外出好きな暇人なんです。

デミアン・ハーストは私は具象の人だと思っているので、視覚的に分かりやすく説明的なゆえに第一印象はショッキング、
そりゃ切断されたでっかい牛のホルマリン漬けが目の前に飛び込んでくるのですから。
ただコンセプチュアル・アートとして捉えるとしたら私には物足りなさを感じてしまうのです。(えらそ〜に)
潜在的な思考が強烈に伝わってこないため表現者からの一方通行、観る側とのコミュニケーションがとりにくい。
表面的にインパクトの強い作品はその先を(見えない部分を)第三者に委ねるのは難しいのかも。
(単純に私の思考能力が足りないだけなのかもしれないけど)
まぁ、これは個人の勝手な感想ですので受け取る人によっては違った感想を持たれることでしょう。
自分はモノ派の作家等に影響を受けた部類なので、大御所への失言どーか許してください。
でも当時騒がれた話題の作品を拝見できたので満足です。

他には私がかつて美大生だった頃まだ現代美術後進国だった英国において突出してポピュラリティを得ていたギルバート&ジョージやビデオアートなど
興味深い作品はあったのですが、展覧会自体に作品としてのコンセプトが薄弱なため全体的に散漫な印象でした。
ティルマンスなんて数年前に観た“ティルマンス展”で同じ作品を鑑賞ているけど全く印象が違いましたもの。
美術作品は回りの空間によっていくらでも違って見えるものですから。
陳列の問題も大きかったのでしょう。
英国現代美術の見本市といった趣きでした。


その後、次男の希望で六本木ヒルズ内のお寿司屋でランチ。
カウンター席で「アワビください。あっワサビは少なめに」なんて具合に次々と注文する息子よ。
母はどれだけヒヤヒヤしたものか。
でもGW中どこに連れていってあげるわけでもなくこのくらい仕方ないか・・と腹をくくったのでした。
「うまかった〜」と君の満足げな言葉で充分お釣りがきたよ。
(なんて見栄を張ってみたが今日の夕飯はチャーハンとスープのみ。とばっちりをくったのは留守番の長男)


で、腹も満たされたことだし次の目的地、恵比寿の東京都写真美術館『知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展』へ。
↑に比べてこちらは小規模なのですが圧巻でした。
生と死のテーマ、白と黒の強烈なコントラストで二元論的なのですが、その両極の狭間に底知れない詩情が溢れている。
静の中に激しい情感がひしめいている。
エッチングのような作品もあり現像の段階で多分に手を加えているのだろうが、そうした技術的なものだけではあのような鮮烈な表現はできるものではない。
単に現場に赴きすぐにシャッターを切るのではなく、神学校にしろホスピスにしろ2年3年と通い、そこにいる人たちに溶け込み、感情・思いを共有したうえでレンズを覗くのである。
それでも一番重要なことは写真に撮れなかったそうだ。
だが、そんな彼の無念さも含めて、克明に写し出された老人のしみやしわに、白と黒とが織りなす色彩に、生まれた瞬間から死のゴールへとスタートしている人間の悲哀や情感が、その小さな矩形の世界に凝縮され強く訴えかけてくる。
そして見る者は思考する。
生きること、死ぬこと・・・なぜ私はこの世界に生まれてきたのだろう?
避けては通れぬ永遠のテーマ。


こちらの展覧会は5月6日(火)までです。
興味のある方はお早めに!


【付記】
私は頭が悪いから自らの思考を生み出すことができない。
なので常に音楽や文学、映画、美術などからの手助けが必要。
もちろんそれで全部が理解できるわけではない。
サルトルを読んでみても半分も理解できない。
だけど読み終わった時に世界が少しだけ変わって見える。
それは世界が変わったわけではなく「自分が変わったんだ」と認識した瞬間がとても嬉しかったりする。
こんな風に外からの沢山の表現に触れ啓蒙されながら得たものが、いつか自分のオリジナリティとなったらいいなと思う。
考えることをやめたら人間は終わり。
死が訪れる瞬間まで思考していたい。